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断片
■亀有駅前の両さんズ
両津勘吉像1
両津勘吉像2
葛西氏から始まる亀有地域の変遷
日本史の中で葛西氏としてその名前が現れるのは、現在からおよそ900年前の鎌倉時代に源頼朝の家臣として使え、先祖から受継いだ葛飾の地を守り、後に奥州諸国を統治した、葛西三郎清重とされています。
葛西の名は下総国葛飾郡葛西庄からのものとされ、葛西氏は信仰に厚く、自分の領地を伊勢神宮に寄進。葛西御厨として、土地で収穫した米を神に供える食物として神宮に献じたとされています。
葛西三郎清重の生涯は、鎌倉幕府の勃興と繁栄を支えた一生ともいえるもので、奥州討伐では最も大きな軍功を納め、源頼朝から広大な土地の支配をまかされたということです。
そのため、彼の生涯を終えた土地が、現在の葛飾辺りなのか、或は奥州の土地なのか定かでは有りませんが、葛飾区四つ木の西光寺には彼にまつわる品々が今も大切に保管されています。
さて、葛西氏一族は清重後も奥州の地で繁栄を保ち、室町時代から戦国時代末期まで確かな勢力を維持していましたが、第十七代葛西右京太夫晴信のとき天昇18年(1590)8月奥州佐沼城で豊臣秀頼の軍勢に敗れ、400年続いた名族の正系は途絶えました。

ここで亀有についてまとめてみましょう。
北条氏から足利氏に取って代わり、時代が室町時代に入った頃、応永5年(1398)のころのものとされる注文書には当時の葛西御厨の範囲と所領高が記されていますが、その中では亀有ではなく、「亀無」と記されています。
その後亀有は「亀梨」となり、「亀有」という地名が登場するのは江戸時代になってから、その記録が残っています。
亀有は土地柄水田や池沼が多く、現在の曳舟親水公園の前身であった「曳舟川」沿いは、将軍家のお鷹狩り場として重要な土地でもありました。
近代に入り、明治以降廃藩置県や市村合併などにより、東京郊外の土地も人口増加があり、昭和7年に葛飾区が施設されたときには亀青村とされ、当時の人口は6200人弱でした。
現在の住居表示になったのは昭和37年。近年急激に都市化していった墨東地区・葛飾区は一昔前のような、水田の多い水郷地帯の名残は見られなくなりましたが、都心のベットタウンとして発展の勢いは衰えないようです。